こんにちは!三島一人です!
今回はお互いの「正義と正義」、「ふつう」とはについて思うことを書きます。
「正義」と「正義」が出会うとき
前回「自分の中の正義」について書きましたが、今回はその続きとして「正義と正義」について考えてみます。
誰かと話をするとき、会社の会議でも、家庭での夫婦の会話でも、友人との雑談でも、必ずといっていいほどそれぞれの正義が存在します。
お互いの意見や認識が一致しているときは、話はすんなりと進みます。しかし食い違ったとき、そこで出てくるのが「ふつうは~」という表現です。
この「ふつうは」という言葉は、実はとてもあいまいです。
多くの場合、それは「自分にとっての普通」であって、必ずしも相手にとっての普通ではありません。
マナーや作法のように社会的に広く共有されたものもありますが、家庭内のルールや仕事の進め方の細かい部分では、「ふつう」は人の数だけ存在します。
大きな世界でも、小さな日常でも
この「正義と正義のぶつかり合い」は、実は世界のあちこちで起こっています。
国と国との領土問題もそうですし、地域同士の対立もそうです。大きな単位で見ればニュースに出るような国際問題、小さな単位でいえば家庭内の「家事の分担」など、日常生活の中にも同じ構図が存在します。
結局のところ、お互いが「自分の正義」を主張するからこそ衝突するのです。
ある歌から学ぶ視点
私が好きな歌に、SEKAI NO OWARIの「Dragon Night」があります。
その中でこんなフレーズがあります。
人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方ないのかもしれない。
だけど僕の嫌いな「彼」にも、彼なりの理由があると思うんだ。
さらに二番ではこう歌われます。
人はそれぞれ「正義」があって、争いあうのは仕方ないのかもしれない。
だけど僕の「正義」が、きっと彼を傷つけていたんだね。
この歌詞に触れるたびに、「ああ、そうだよな」と深く考えさせられます。
自分の正義を通すことが相手を傷つけることもある。
それでも私たちは主張をしなければならない。なぜなら、黙っていても何も解決はしないからです。
主張することと、歩み寄ること
主張や意見を持つことは、とても大事なことです。
ただし忘れてはいけないのは、相手も自分と同じように「自分の正義」を持っているということ。
相手の主張に耳を傾けずに自分の正義ばかりを押し通そうとすれば、必ず摩擦が起こります。
会社での会議ならば、業務を効率よく進めるための「正解」があるかもしれません。
しかし、夫婦や友人関係においては「効率」よりも「関係性」を大事にする必要があります。
「正しいかどうか」よりも「お互いに納得できるかどうか」が重要です。
「ふつう」を疑うことから始める
そもそも私たちが何気なく使う「ふつうは」という言葉。
これは本当に「ふつう」なのでしょうか?
自分にとっては当たり前でも、相手にとっては全く違う場合があります。
たとえば家庭内での家事分担。
「ふつうは妻が料理をして、夫がゴミ出しをする」と言う人もいれば、全く逆の分担が「ふつう」の家庭もあるでしょう。
結局のところ、「ふつう」は家庭や環境によって形を変えるものなのです。
まとめ――正義はひとつではない
「正義」と「正義」が衝突することは避けられません。
しかし、その衝突は必ずしも悪いものではありません。
衝突するからこそ相手の考えを知り、歩み寄ることで新しい道が開けます。
もし自分の正義ばかりを大事にしてしまったら、その場は勝てるかもしれません。
しかし、相手の心に残るのは「負けた」という痛みです。
本当に大事なのは、勝ち負けではなく、お互いが少しずつ歩み寄りながら納得できる着地点を見つけること。
自分の正義を主張しつつも、相手の正義にも耳を傾ける。
その姿勢を忘れずに、日々の会話や交渉に臨んでいきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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